2017
09.08
茨城県出身の力士 大内山平吉
私の生まれは昭和34(1959)年です。その年の3月場所を最後に引退したのが、大関 大内山平吉でした。
そのため、私には大内山関の取り組みについて記憶にはありません。
しかし、知人から聞いた話では、その頃一家にテレビが1台ない時代でしたから、近所の人が皆テレビのある家に集まって、大内山関の相撲に大声援を送っていたということです。
大内山平吉関は、大正15(1926)年に現在のひたちなか市平磯町に生まれました。
本名は大内平吉といい、漁師を営む家の長男でした。
昭和17(1942)年、16歳の時に横須賀海軍鎮守府要員として徴用され、敵の潜水艦を見張る船に乗っていたそうです。
その際に、14歳の頃からぐんぐん大きくなっていた体を見込まれて、「相撲とりになるなら、徴用を解除してやる」と言われたことなどから角界入りを果たしました。
全盛期は、身長202cm、体重157.5kgと、身長の高さにおいてかなり突出していたようです。
昭和30(1955)年夏場所の千秋楽、朝日新聞は横綱 栃錦との一番を“末長く残る名勝負”として、
“大内山は猛然と突っ張るが、栃錦に両差しを許す。
これをかんぬきにきめ上げると、内掛け、二枚蹴り、出し投げと、栃錦の攻め。
大内山も残して突っ張ったあと得意の右差し。しかし、栃錦の首投げに、2m余りの巨体が空中に舞った。
栃錦が横綱、大内山は大関。技と敢闘は今日でも称賛されている。”
と紹介しています。
公益財団法人常陽藝文センター・発行『常陽藝文2010年8月号』参照
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