『入浴福祉新聞 第122号』(平成24(2012)年10月1日発行)より
過去の入浴福祉新聞に掲載された記事をご紹介します。 発行当時の入浴や福祉等の状況を少しでもお届けできたら幸いです。 |
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江戸時代の入浴事情
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お風呂文化は江戸時代に大きく変わりました。安土桃山時代の終わりに銭湯が登場し、江戸時代には町民が銭湯を楽しむようになりました。それまでの風呂はまだまだ蒸し風呂が主流で、入湯する入浴も膝から下が湯に浸かる、現在で言う半身浴が中心でした。江戸時代に入って肩まで浸かる「据え風呂」が登場しました。この「据え風呂」は、薪を燃やして風呂釜を直接温める方式のもので、「鉄砲風呂」や「五右衛門風呂」がそれに該当します。
しかし、江戸時代には火災の観点から内風呂が禁止されていたようで、大名屋敷などの一部の屋敷を除いては内風呂がありませんでした。そこで人々は皆、銭湯に行ったのです。江戸時代の銭湯とは大きな違いがあります。寛政の改革時に、天保の改革では風紀が乱れるという理由で、混浴が一時的に禁じられた時期もありましたが、銭湯における混浴は明治維新まで続いたようです。このことは「ペリー艦隊日本遠征記」によると日本にやってきたペリーも「混浴」という入浴の文化の違いに驚かされたと伝わっています。
このような混浴とされた理由のひとつに武士が銭湯に入りに来たということがあるそうです。武士は刀を常に腰に差していました。そのため、江戸時代の銭湯には刀を掛けておく台がありました。しかし、この刀を掛けておく台は女風呂のほうにありました。実は、武士は女風呂に入っていたのです。
この理由として、1つめに大事な刀を男湯に置いておくと盗難されることが多かったため、2つめに血気盛んな男たちの脱衣所に刀を置いておくと切りあいなどになりかねなかったため、と言われています。
そのため、武士は、銭湯の女風呂に入っていました。しかも、人の少ない早い時間帯に利用したとされています。このように武士たちが女湯に入ったことが江戸時代の銭湯において混浴となった1つの理由だといわれております。
このような銭湯ですが、江戸などの大都市在住の人々の場合、その多くが毎日、通っていました。しかし一方で、大都市以外に住んでいた方々は3~5日に1回程度しか銭湯に行けなかったとされています。これは江戸などの大都市圏の人のほうがお風呂が好きだったからというわけではございません。大都市圏以外の地方の方が、銭湯にかかる費用が高かったのです。
江戸や宿場町等には公衆浴場がありました。この公衆浴場の入浴代金は幕府の決めた安い公定料金になっていたのです。それに対して、江戸などの大都市圏以外では、公共の湯屋を作るほどに人口が多くありませんでした。そのため、銭湯に行く頻度もすくなかったようです。
そこで、地方都市の人々は暑い季節になると、銭湯に行けない日は水浴びをしていました。
水戸市には弘道館という江戸時代に水戸藩士たちが学んだ学習所があります。浴室の真ん中がすり鉢状になっており、そこに穴が開いていて、そこから排水をするようになっています。学業、武術の鍛錬によって疲れた水戸藩士たちは水遊びをして一日の疲れを癒していたのでしょうか。
そのように考えると、今年も暑かったこの夏。家に帰ってきて、ひとっぷろ浴びてさっぱりできたことを喜びに感じることができるのではないでしょうか。
※発行当時の原稿のまま掲載しております。何卒ご了承の程お願い申し上げます。
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